2022年3月26日土曜日

週報・説教メッセージ 20220327

 入院中の母の老人施設への入所先が決まり、急遽帰省し手続きなどしました。弱った母は車いすから私を見つけて、「会えてうれしぃー」と手を握りながら喜んでくれました。ハグしながら再会を懐かしんでいると、「まるでアメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくださいました。日本ではあまりハグしたり、感情を豊かに出さないのかもしれません。聖書では、まだ見えないくらい遠くにいるのに、帰ってきた息子を見つけ駆け寄って抱き寄せる父親のたとえ話が出てきます。神様は、どんな方なのでしょう?一緒に考えてみましょう。礼拝でお待ちしています。





聖書の言葉 

ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)より一部

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。

11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。…


説教「まだ遠く離れていたのに」徳弘師

1. 「会えてうれしぃー」と手を握られて…

忙しい週でしたが、急遽福岡の実家に帰省させていただきました。教会にも、ご病気の方が幾人もおられるのに、牧師が自分の親のことで飛んで帰るのははなはだ気が引けて恐縮でしたが、今の私の家族では私以外に誰も判断や契約、そしてお世話ができる者がいないので、ご容赦ください。

昨年脳梗塞で倒れ手術をし一命をとりとめた母ですが、脳の視力や記憶の部分に障害が残り、リハビリをしていました。これ以上のリハビリの成果は期待できず、といっても自宅に帰ると転倒の危険もあり、老夫婦の生活は危険だとして、老人施設の空きを待っていましたが、急に空いたとの連絡があり、向かいました。

退院手続きをして、理学療法士、看護師、薬剤師からそれぞれ説明を聞き、母と久しぶりに会いました。「あー、浩隆さんが来てくれた。うれしぃー」と手を取って握りしめ、車いすに引き寄せられるのでそのままハグをして再会を喜んでいると、「アメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくれました。「目もほとんど見えないのに、よくわかったねぇ」と父が言うと、父のほうを見上げて「この方はどなたですか?」と聞いている様子にみんな苦笑い。「ご主人の声が小さくてわかりにくかったけれど、息子さんの声ははっきり聞こえて、わかりやすかったのでしょうね」とのこと。移動先の老人ホームはなんと、大垣教会の施設と似た名前で「あゆみの里」。車いすごと電動リフトで車に載せてもらい、移動し、入所を済ませました。「家に帰りたい」と何度も話していた母が、意外とスムーズに入所してくれたのには、ワーカーさんもびっくりで、「再会でうれしかったから、説明をちゃんと受け入れてくれたんでしょうねぇ」、とのことでした。「家に帰っても危なくて大変だから、個室のホテルみたいな施設で世話をしてもらいながらしばらく過ごしてくださいよ」と説明していました。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、ちょうど、帰ってきた息子を、遠くから見つけて迎え入れ、喜ぶ父親のたとえ話です。

「放蕩息子」というタイトルも付けられた有名な話です。親から財産を早く分けてもらい、遠い国に行き無駄遣いして使い果たし、飢饉が来て食べるのにも困り、ユダヤ人が忌み嫌う豚の世話をしながら、そのエサででも飢えを満たしたいと思うほどに落ちぶれ、我に返って改心し、父のもとに帰ってもう一度やり直そうとしたのでした。子どもとしての権利を主張せず、雇人の一人でもよいからと、そんな気持ちでした。

それを、まだ遠く離れていたのに見つけ、喜び迎え入れ、走り寄って首を抱いて喜んだ父親でした。そして、肥えた子牛を屠って宴会をしようというのです。

ここに、神様から離れ、勝手気ままに生きてきて、何もかも失ってしまった人間が、改心して神様のもとに帰ってきたらどれほど神様が喜ばれるかという、神の愛が説明された「世界でもっとも偉大な短編」ともいわれるほど有名になったイエス様のたとえ話でした。本当にわかりやすく、人間の罪と改心、感動的な神様の愛とゆるしが描かれています。私たちも、四旬節に罪を見つめ、神様に立ち返りましょう。

3.振り返り

 しかし、この「短編」にだけ目を奪われてはいけません。なぜこのたとえ話をイエス様がされたのかも大切なところだからです。

 それは、明らかな罪びとが改心するように話したのではなくて、明らかな罪びととともにいるイエス様を批判した当時の宗教指導者たちへの話だったのです。その批判に対して、「神の愛はこれほど大きなものなのだよ。一見立派に生きている人よりも、戻ってくる罪びとが大切なのだよ」とイエス様を批判する人への改心を迫る話だったのです。

 これを聞く私たちは、どこにいるでしょうか?放蕩しているままの人? 放蕩したけれど改心した人?あるいは、罪びとと一緒にいるイエス様を批判する人?

4. 勧め

連日の戦争のニュースで心を痛めます。一方的に誰かを悪者にして、何とか解決しないのかと憤る気持ちもわいてきます。しかし、上からすべてを見ておられる神様の目はどうでしょう? 私たちは、加害者と思われる人を非難するだけでなく、人間の共通の罪を嘆き、彼らのことも祈ってあげ、とりなしてあげたいと思います。そして、解決の道を開き、苦しみの中にいる人に支援の手を届けたいと思わされています。敵地に連行されたり、戦火を逃れて他国にわたる人たちを見ます。そこに、誰よりも、「自分の家に帰りたい人たち」の嘆きも見るからです。ともに悔い改め、助け合いましょう。神様の愛の前に、一緒に立ち戻りましょう。まだ遠くにいるのに、ちゃんと見つける神様は、ずっと見ていてくれているからに違いありません。


2022年3月19日土曜日

週報と説教メッセージ 20220320

春のような陽気、そして雨。感染病と戦争のニュース。何もできない無力さを感じます。私と違って理系なのにヴァイオリンを習ったり文学青年だったけれど電機メイカーに勤める兄から「大事にしていたロシア文学の本を捨てようかと迷っています」とメイルが来ました。ロシア文学には人間の罪深さを描いたものも多いでしょう。文系なのにパソコンやITが好きな私は牧師になりネットで人の罪と神の愛による和解と平和実現を訴えています。皆心が揺れ、つらい日々ですが、できることをして、何かと決別して、何かを始めるときなのかもしれません。静かに、祈り、一週間を始めましょう。






聖書の言葉 

ルカ13: 1~ 9 (新134)

13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


説教「今年もこのままに…」徳弘師

1. 3年経つのに実らないといわれ…

実は、今日の聖書の福音書のたとえ話の中のセリフはびっくりする言葉から始まりました。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。」と言われているからです。ブラジルから帰国して3年、この教会に呼んでいただいていろいろなことをやってきたつもりですが、「3年経つけれど、いったい何ができただろうか」と自問自答しながら、引っ越しの準備をしました。そんな中、今日の聖書のたとえ話で3年経つけれど一つも実らないイチジクの木の話を聞いて、「いくら待っても結果が出ない。もうだめだ、切り倒してしまえ」と神様に叱られている気さえしました。

それは少しこじつけで、考えすぎかもしれませんが、私たちの人生にも、こういうときがあると思います。

一生懸命やっても自分は何をやってきたのかと自問自答するとき。何をやってもうまくいかず、失敗したときに、自分に嫌気がさすとき。突然の災難やトラブルに出くわす、そんな時に、何か悪いことをしたから神様から罰せられているのか、と神様との間で原因を探すことがあるかもしれません。

そんな出来事に対して、イエス様はどうとらえるべきか、そしてイエス様がどう解決してくださろうとしてくださったか、その答えを聞いていかねばなりません。聖書を一緒に学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、何人かの人たちとの問答から始まっています。過ぎ越しの祭りで犠牲を捧げるのと同じ時期に、ピラトの命令でガリラヤ人が殺されたのだろうと考えられていますが、それについての問答です。そして続いて、エルサレムの神殿の地下を通る水道の出口に当たる池を守る砦の塔が倒れて犠牲者が出たという事件があったようですが、そのことについてのやり取りです。当時のユダヤを苦しめていたローマ帝国の提督から殺された人々、そして災害で塔の下敷きになって死んだ人たち、彼らがなぜそうなったかと人々は考えます。たいがい、私たちは、何か悪いことをしたから神に罰されたのではないかと、あれこれと、原因を探します。

しかし、今日のイエス様はきっぱりとそれを否定されたのです。「ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と。ひどい目にあった人たちや、災難で急に命を落とした人たちが、なにか神様の前に悪いことをしていたから神の罰が当たったのだと思うときには、そんな目に合わなかった自分は正しい生き方をしているから救われたのだと、自分を肯定する気持ちがあるものかもしれません。彼らは悪いことしてきたから罰せられたのであって、そうなっていない自分は神様に認められていると、優越感を感じているのかもしれません。

そんな私たちにイエス様ははっきりと言われます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。

イエス様は直接的な因果関係はないことを教えられました。そして、幸いに災いを逃れたからと言って、自分たちは災いに遭った人々よりも罪人ではないのだと自己満足に陥ってはなりません。

3.振り返り

神様の目から見たら等しく罪びと、五十歩百歩であり、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエス様に宣言されています。では今日の聖書から何を聞き取っていけばよいのでしょうか?人類はみな罪びとだから救いがないというのが結論なのでしょうか。

 今日は最後の礼拝ですが、こんなものを用意しました。先日大垣教会の灰の水曜日の礼拝で紹介しましたが、少し作業をしていただきながら、今日の神様からの勧めの言葉として心にとめていきましょう。

 人は罪を犯し、自分の心の中でも、家族や人との間でも、そして集団や国というレベルでも、葛藤や争いがあります。神様の目から見れば失敗作のようなもので、罪の報酬は死であると聖書は断言します。しかし、神様は愛の方であり、罪びとたちを救おうと、預言者を使わして語り掛けてこられました。

「もう切り倒してしまえ」というのが神様の裁きの厳しい言葉とするなら、「今年もこのままにしてください。もう少し待ってあげてください」というのが神様の愛の気持ち、イエス様のお気持ちかもしれません。そして、「切り倒すなら代わりに自分を切り倒してください」と、神様の前に立ちはだかって私たちをかばい、自ら代わりにと進み出た先に十字架があるのです。

4. 勧め

イエス様の十字架の死、これを通して、私たちは本当に悔い改めさせられ、産みかえられるという不思議な方法を神様は取られました。奇跡で自動的に罪びとが信仰者や善人に変えられるのではありません。

 自分の代わりに死んでくれた方の十字架を見上げるときに、今までの自分も切り捨てていく苦しい作業の中で、少しずつ、つくりかえられていく、それが教会生活や信仰生活です。この紙を折りたたんで、切り取った後に出てくる十字架を見上げて、生きていきましょう。復活祭までの四旬節の間、特に静かに悔い改め、恵みの中に生まれ変わりましょう。


2022年3月12日土曜日

週報とメッセージ 20220313


聖書の言葉 

ルカ13:31~35 (新136)


13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」



説教「これはあなたのためなのに」徳弘師

1. 一度は言われたことがある言葉…

「あなたのことを思っていっているのよ」という言葉、誰もが一度は言われたことがあるでしょう。そして、誰もが一度以上言ったことがあるのではないでしょうか?言われたのは子供のころ、親から?そして、 言ったことがあるのは、親になって、または職場で後輩に向かってなどかもしれませんね。相手のことを思えばこそ、こんなに丁寧に、時には一生懸命に、また、時にはお節介にきびしく、言った言葉かもしれません。

今日の聖書にも似た言葉と受け取れる言葉が出てきます。そして、それに対して、反対に同じ言葉を言い返されているようにも聞こえます。イエス様に対してと、イエス様の返す言葉にです。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、ファリサイ派の人々がイエス様に近寄ってきて言ったのです。「ここから去ったほうがいいですよ。ヘロデ王があなたを殺そうとしています」という具合です。それに対して、イエス様の反応は、「ああ、ありがとう。ご親切に」という言葉ではありませんでした。イエス様は、冷たく厳しい返答をされます。それは、ヘロデ王に対して冷たい返事を伝えるようにとのことでもありますが、ファリサイ派の人たちにも冷たく答えたようにもあります。

イエス様はガリラヤを離れてエルサレムに向かう旅の途中でした。ルカによる福音書は大きく3部構成で、1)誕生からガリラヤでの教えや働き、そして2)エルサレムへの旅の途中で教え、最後に3)エルサレムに入っていき最後の週を過ごすという形になっています。その旅の途中。ヨルダン川の東側を旅していたとしたら、ヘロデの領地を通過しているところだと考えられます。「ヘロデが殺そうとしているからこのヘロデの領地から去った方がいいですよ」と教えに来たのはファリサイ派の人たちでした。イエス様の身を案じてくれている様子ですが、実は自分やヘロデ王からしたら面倒なイエス様を追い払うためにファリサイ派の彼らが自主的に、またはヘロデの指金で追い出そうとしたのかもしれないと考えられています。

それに対して、イエス様は冷たく答えるのです。「自分はいつでも教え癒し、そしてやがて苦しみを受けることになっている。」「私は自分の道を進むのだ」と。

3.振り返り

ファリサイ派の人たちのイエス様の身を案じたように聞こえるアドバイスは、そうかもしれないし、自分にとって邪魔だったからかもしれないし、ヘロデの差し金で言わされていたのかもしれません。いや、それらがすべて交じり合っていたのかもしれません。人間の心の中は、それほど明快で簡単なものではなく、色々なものがうごめいているのは私たちも知っています。私たちが、人にかける言葉はどんな動機でしょうか?「あなたのことを思っているのだよ」という言葉の。本当にその人のことを思っている気持ちもあるでしょう。しかし、自分が果たせなかった夢をこどもや部下に押し付けていることもあるかもしれません。あるいは世間体や競争心など別の事情で一生懸命に急き立てている面もあるかもしれません。その動機を良く見極め、更に上から見ておられる神様の視線が大事です。

それは、次の言葉からわかります。イエス様の答えは明快でした。「神様の御心を生きて、その計画通りに生きる」ことと、「今日も明日もその次の日も分の道を進むのだ」と。私たちが大切にするべきことは、自分の思いではなく、神様の計画と、ただそれをひたすら歩むことなのです。

その動機は、ここで分かります。「あなたのことを思って言っているのですが」というファリサイ派の人たちに対して。「私の方が、あなたのことを思ってこそ、何度あなたたちを集め守ろうとしたことだろうか」と。

仮にファリサイ派の人たちの言葉を善意と受け止めたとしても、それ以上に、イエス様は善意で、いや、神の愛をもって、彼らを心配し、嘆いておられるのです。そして、それを分かってくれずについてこなかった彼らのためにも、「私は自分の道を進まねばならない」のです。どこに進むのでしょうか?

それは、これから進んでいくエルサレムで待ち受けている出来事。最後の週の出来事と、彼らのために十字架で犠牲になっていかれるという事なのです。

4. 勧め 

 私たちは、いろんな人のことを気遣うでしょう。そして自分自身も大切であれこれします。しかし、それらはたいていお門違いな努力なのかもしれません。神様の目から見れば、そんなことをしても何にもならないのに、心配し、努力し、ぶつかり、頑張っているけれども、方向が間違っている。無駄な努力と失敗ばかり繰り返している。そんなことかもしれません。

そんな私たちのすべてをご存じで、私たちのことを心配し、先回りして十字架の道へと急がれるイエス様の愛を知り、この方に従って生きることが、実は一番大切なのです。「これはあなたのためなのに」と誰かに言う時、この自分に対してそう言って待っておられる神様の視線を思い出しましょう。憎しみや暴力、報復の連鎖を止めて、平和を実現するためにも、私たちの罪と神の愛を知り、生きていきましょう。

2022年3月5日土曜日

週報と礼拝メッセージ 20220306

 今日から四旬節で、キリストの十字架と人間の罪を見つめ、悔い改め静かに祈る季節です。否応なしに、人間の罪深さを見つめさせられる戦争を見せつけられます。自分の心や自分たちのしてきたことも見つめ悔い改め、愛と平和を実現するものになりたいと思わされます。教会の礼拝でお会いしましょう。



聖書の言葉 

ルカ4: 1~13 (新107)

4: 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


説教「心まよいゆくをやめて」徳弘浩隆師

1.「四旬節」の旬は中国語で「10日間」の意

今日から四旬節。キリストの十字架の苦しみを見つめながら、私たちの心の中にある罪深さも見つめ、悔い改める季節です。聖書は、「イエス様が40日断食をしている時に悪魔から誘惑を受け、それを退けられた」という出来事が伝えられています。ノアの洪水も40日40夜だったと書かれていますし、40という数字は意味深く、私たちも40日間、静かに悔い改める日々を送ります。四旬節の「旬」は、この字が中国語で「10日間」の意味だからだそうです。これから始まる40日、悪の誘惑を断ち切り、静かに悔い改める日々が始まります。


2.聖書を学びましょう

イエス様は罪人を救うためにこの世に降り、人となってくださいました。そして、キリストとしての公生涯を始める前に、このような悪魔の誘惑を受け、それに打ち勝たれたとの記事が聖書に残っているのです。

子なる神としてのイエス様は、何の苦労もなく奇跡で人々の心を変え、世界を変えることができるかというと、論理的には可能かもしれません。しかし、「エイッ」といわれ、「アッ」という間に私たちが変えられるなら、それはそれはもはや本当の自分、本当の私たちではなくなっているでしょう。よく映画であるように、記憶をなくしたり、奇妙に感じるほど「別人」になってしまうかもしれません。

今までの自分を生きながら、罪を持たない本当の神の子に私たちも変わるには、「今までを引きずりながら、試練や鍛錬を通して、生まれ変わらせていただかないと」、今までの自分でもなくなるはずだと、私は思わされます。キリストも、奇跡的に悪魔を退け、人々や世界を奇跡で変えなかった理由は、そこにあるでしょう。イエス様ご自身が、人間の立場で苦しみ、もがき、泣き、笑いしながら、悪魔を退け、そしてやがて罪深い人間を奇跡的に改造するのではなく、彼らが心の底から今までの罪を見つめ、改心するという特別な方法をとる必要があったのだと思わされます。そこに、キリストの十字架と、私たちの人生の苦難の意味があります。

イエス様は、悪魔の巧みな誘惑を、聖書の言葉で反論し、悪魔を退けました。私たちに対する今日のメッセージの一つは、ここにあるでしょう。神のことばが何よりも拠り所だということです。


3.振り返り

私たちの人生にも、迷いや、誘惑がたくさんあります。教会のある方が言われた言葉に、「悪魔は悪魔の顔をしてこないんですよ…、ハイ」という言葉があります。苦笑いをしながら、そう謙虚に言われる言葉は、体験も含めたご苦労の中で語られ、納得させられる言葉です。そういえば、「振り込め詐欺」も、「傍から見れば騙されているのではないか」と心配になっても、「当事者は真剣ですし心配で仕方がなく疑わない」ということになってしまうようですね。「悪魔のふりをしない悪魔」を見分けなければなりません。

そこでもう一つのことを考えなければなりません。「悪魔のような人の中に自分を見ることはむつかしい」または「自分の中の悪魔を見つけることはむつかしい」ということです。人を責めるのは簡単です。事件や戦争のニュースを見て、ひどい行いをする人を見て、「なんてひどい奴だ」と思うのも自然にできることです。しかし、その、他者が持つ「悪魔性」ともいえる一面を、自分の中にも見つけることができる、見つめることができるのは、大変難しいことです。ましてそれを、謙虚に、勇気をもって、認め、また他者にもそれを公言できることは、大変な事です。素直に謝ることがどれほど難しいかは、誰もが知っていることです。

 今の私に悪魔の誘惑があるとすれば、「それを認めたくない、見つめたくない」という私たちの心こそが、最大の誘惑かもしれません。どうしたら、それを認めることができるでしょうか?そこにも、神様の言葉が必要です。「神を愛す」「人を愛す」「うそをつくな」「寄留の民を愛せよ」などという神の言葉を、自分自身に問うてみるのです。

 神のことばは、いじめられるときにお守りのように自分を力づけて守ってくれるだけの物ではありません。自分の心の中を見つめ、神様の言葉に背き、人を傷つけていたということをも浮き彫りにしてくれます。


4. 勧め 

今回の戦争のニュースはとても難しく、重くのしかかってきます。BBCのドイツ人へのインタビューがありました。「他国に侵入し蹂躙している姿は、かつてのヒトラーやドイツのように思える。だから私は難民の人をできるだけ助けたいと思うのです」。日本に住む私も日本の歴史上の過ちを思い、詫びたくなります。「悪人」のように見える人を見て、悪人を責めるのは簡単ですが、そこに「自分」を見つけ、悔い改め、人を愛する生き方ができるよう祈りたいと思います。迷いゆくのをやめて、自分の外と内の悪を退け、平和を作り出すのは、そこから始まるように思わされます。いのり。 


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超教派の祈りの集会・世界祈祷日の直前、今回の準備国から祈りの言葉が届きました。ともに祈りましょう。

<平和の祈り>


過去から現在へ、そして未来の神よ。

私たちの思いと祈りは、恐怖と苦悩の中にあるウクライナとその周辺諸国の姉妹、兄弟たちとともにあります。

また、世界の中で、紛争、情勢不安、抑圧がある他のすべての地域のために祈ります。

紛争と戦争の両者に、そして私たちの中にも罪があることを覚え、悔い改め、それぞれのために祈りを捧げます。

私たちは祈ります、和解が憎しみを克服することを、平和が戦争に打ち克つことを、希望が絶望に取って代わることを。そして、この地域に対するあなたの計画が成就するように祈ります。

神さま、あなたの憐れみのうちに、私たちの祈りを聞いてください。アーメン


(WDPイングランド、ウェールズ、北アイルランドによる 2022年2月25日版を徳弘牧師が一部追加改変)