戦争が始まり、心の中の闇を見せつけられます。真っ黒な闇。今日の聖書は、イエスキリストが真っ白に輝いたという山上での出来事が読まれます。真っ黒と真っ白。ブラックアウトとホワイトアウト。いろいろいっしょに考えてみませんか?そして、平和な世界のために、一緒に祈りましょう。行動もしましょう。礼拝でお待ちしています。
戦争が始まり、心の中の闇を見せつけられます。真っ黒な闇。今日の聖書は、イエスキリストが真っ白に輝いたという山上での出来事が読まれます。真っ黒と真っ白。ブラックアウトとホワイトアウト。いろいろいっしょに考えてみませんか?そして、平和な世界のために、一緒に祈りましょう。行動もしましょう。礼拝でお待ちしています。
ブラジルの集会所で英語や音楽を教えていた中の一人、ブラジル人のTiago(チアゴ)は14歳くらいで、ちょっとわがままで難しい子。ある日帰り際に彼に会い、私は手を振って言いました。「Tiago, Te amo!(チアゴ、チアモ!)」。とっさに口を突いて出たダジャレで「Tiago, I love you!」という意味。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。僕らは人を愛するときに、どんな理由があるでしょうか?難しい人を愛すること、ましてや敵を愛することができるでしょうか?教会で一緒に考えてみましょう。明日もYoutubeとFacebookでも中継します。
聖書の言葉
ルカ6:27~38 (新113)
6: 27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
説教「I love you, because…」徳弘浩隆師
1. 大嫌いだから、大好き?
ブラジルのスラム街でそこのブラジル人のお世話をしていましたが、子どもたちの中に、Tiago(チアゴ)という男の子がいました。聖書に出てくるヤコブのポルトガル語の言い方です。14歳くらいのその子は体格のよい子で、少しむつかしいところがある子でした。いうことを聞いてくれないでわがままを言ったり、急に怒ったり、時には友達をたたいたりして、大人を、また仲間の子どもたちを困らせることもある子でした。
ある日、その日のクラスやおやつの時間も終わって、片づけをして大人のスタッフが車でサンパウロに帰る時、道にいるTiagoに会いました。私はとっさに手を振って言いました。「Tiago!」 すると彼が振り向きました。さよならを言おうと思いましたが、なぜか私は「Tiago, Te amo」と言いました。Te amo(チ・アモ)というのは「I love you」という意味ですが、「チアゴ」と「チアモ」は語呂もいいし、とっさに口を突いて出たダジャレでした。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。
一番頭が痛い、いわゆる「面倒な子」「問題児」ともいえる子ですが、それから彼の名前と、ポルトガル語でいう「I love you」の言葉はセットで思い出し、呼びかけるようにもなりました。
ダジャレの続きの面白いオチも思いつきましたが、スタッフの大人には言っても、彼には言わなかったと思います。それはこういう具合です。「どうして先生が君のことを愛しているか知ってる?」という意地悪な質問をして、「どうして?」と聞かれるとこう答えてギャフンと言わせたかったのです。「それはね、イエス様は言われたでしょ。敵を愛しなさいって。だから、君が大嫌いだから、君を愛しているって言ったんだ」と。
そんな意地悪なことを言って「思い知らせる」ことはしなくても、彼に教会でパソコンや音楽や聖書を教えながら一緒に過ごした数年間で、ずいぶん落ち着いて柔らかい子になりました。
2.聖書を学びましょう
今日の福音書のイエス様の言葉は、分かりやすいですが、難しいことを言われています。「敵を愛しなさい」というからです。愛せないものに対して、どうしてこんなことができるでしょうか?
では、そもそも、どうして愛せないのでしょうか?
イエス様が「愛せよ」という命令の言葉を聞くと、愛することが出来ない理由はこういうことになります。「あなたを憎む、悪口を言う、侮辱する、頬を打つ、上着を奪い取る」からですね。もっともです。
逆はどうでしょうか? 人々が誰かを愛したくなる理由は、イエス様の話に出てくる順でいうと、こういうことでしょう。「自分を愛してくれる、良くしてくれる」から、ということですね。これももっともな話です。しかし、それの反対をしなさいと言われると、実際には難しいことばかりです。
3.振り返り
私たちが何かを、誰かを、愛する基準、理由は何でしょうか?それは、「自分にとって何かメリットがあるかどうか」という尺度が大きいでしょう。
自分にメリットがある、心地いい、うれしい、は自然に人の心を開かせます。
TVコマーシャルの世界で昔から「3B」というキーワードがあるといわれます。「これに当てはまったCMは、だいたい評判がよく、ものがよく売れる」そうです。その3つのBとは、Beauty, Baby, BeastのBです。いわゆる「美人、美男子」と「赤ちゃんや子ども」、そして「(かわいい)動物」が出てくると、だいたい無条件で人は心を開き、動かされ、受け入れやすいというのです。製品の機能や安さや便利さをデータで示すよりも、人々がその製品に心を動かされ、購入頻度も上がるらしいのです。TVでCMを見るときに、今度気にしてみてみてみると、面白いかもしれません。
ブラジルでも別の「3B」という言葉を教えられました。買い物でお店の人が進めるとき、「これは3Bです」と冗談でよく言われます。それは、Bom, Bonito, Baratoでこれらは「いい(良いや美味しい)、きれい、安い」という言葉のことで、これも納得がいきます。
私たちは、知らずのうちにこういう尺度を持ち、こういうものを探し、大切にし、心動かされます。しかし、神様の尺度は、これらとは、違うようです。ここで私たちが考えさせられることは、「愛することに理由があるのか?」「理由が要るのか?」ということです。
私が冗談でTiagoに「どうして先生が君を愛しているか知ってるかい?」と聞いて、「どうして?」と聞かれたら、こんな答えが考えられます。
1)私が冗談で言ってやりたかったように、「イエス様が敵を愛せと言われたから、敵のように大嫌いな君を愛しているんだよ」と。これはいただけません。
2)「君がとってもいい子で、素直でかわいらしくて、優しくて、よく先生の言うことを聞いてくれるからだよ」とか、「君のお父さんがたくさん教会や学校に寄付してくれるらかだよ」かもしれません。これもだめですね。
3)「いや、理由なんかないよ。一人一人、とっても大切だからだよ」「神様は、誰でも、みんなのことを愛しているからだよ」でしょうね。
計算高いのではなく、自分への見返りを求めるのでもなく、神の愛は、条件や理由などないのです。
4. 勧め
昔の宣教師が聖書の言葉を伝えるときに、あまりなじみのない「愛する」という言葉は使いませんでした。日本の当時の人たちにわかりやすく、また勘違いされないような、適切な言葉を探しました。そして、「ご大切」という言葉に行き当たったそうです。
「神は愛なり」は、「神様はあなたを、ご大切になさる方ですよ」となるかもしれません。「神様」も神道の神様と誤解されてもいけないので、宣教師のポルトガル風に「デウスさまは」とか、それを日本語に当てた「天主様は」となっていたかもしれません。でも、「愛する」は「大切にする」です。 神様は、どんなに自己中心でわがままで、かけだらけのものでも、愛しておられる。「ご大切」にしてくださる。そんな方だと、条件なしの愛を、イエス様は説かれたのです。
そして、「言うだけ」でなく、この神の愛を説かれた方は、人々が頬を打つときに、衣服をはぎ取り、命を奪う時に、「自分から与えているので、彼らを輸してあげてください」と祈ってくれた神の愛の方だったのです。神様の愛を受けて、赦され、人を愛し、助け合ういのち、それが神様の願いです。それが私たちの本来の生き方です。それが誰もが生きやすい、本来の姿です。
そんな生き方を、少しずつ、一緒にしませんか?神様の祝福がありますように。
落ち葉を掃除しても風に吹き飛ばされて元の木阿弥。そんなことありませんか?教会の牧師館に住んでいると、よくある話です。妻と二人、頭を抱えて、何度も何度も掃除… まてよ。これは、僕らの人生かもしれません。聖書にそんなところがあったな。 どうすればいいでしょう? 礼拝で考えましょう。大垣教会でメッセージしますが、YoutubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。
あすは、徳弘牧師は岐阜教会で礼拝メッセージをします。大垣でも、信徒礼拝があります。どうぞ、おいでください。でも、大雪警報も出ました(現在)。おきをつけて、またはむりされないで。YoutubeやFacebook中継もあります。
聖書の言葉
ルカ5: 1~11 (新109)
5: 1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。。
説教「何をいまさら、という時でも」 徳弘浩隆師
1. 「だから、あの時そう思ったんだ」と…
大変な失敗をした後、落ち込む気持ちに追い打ちをかける言葉がありますね。「やっぱり、そうなると思っていたんだ。どうしてそれが分からなかったのかねぇ」という言葉です。
全然関係ない人で、あとから聞いた話でそう言われるならまだしも、「一緒にその場にいて、その時は何も言われなかったのに、今になってあなたが言うのか?」という状況の時があります。
最近は母の入院で父とは二人だけでいろいろと話すことがあり、急に一人暮らしになってしまった父は少し寂しい思いをしながらでしょう、多少自虐的な事でも思い出して話すことがあります。二人で笑いながら意気投合しました。
それはこんな具合です。「少し車の運転が下手になってきたかなぁと思うことがあるんだ」と私が言うと、父の話が始まります。「父さんも歳を取って下手になってきて、ちょっとしたところで車をぶつけたりしたよ。若いころは上手だったけど、つい標識を見逃してスピード違反で捕まったりしたなぁ」と。そして「そういう時いつも母さんに怒られたもんだ。『どうしてこんなことに気付かなかったの?私はここ危ないと思っていたのよ』」と。そして二人の共通の意見はこうです。「そうだそうだ。ああいうの、いつも後から言うんだよね。私は分かってたって。本当だったら、どうして、その時言わないのかねぇ。しかも、自分は免許持ってなくて運転しないのにねぇ」と二人で大笑いするのです。
もちろん、陰で悪口を言うのではなくて、母親がいなくて寂しくて、二人でしみじみと笑うのですが。
そこには二つの論点があります。「あの時は何も言わなかったのに」、ということと、時には「あなたは専門外で何もしらないくせに」ということです。
2.聖書を学びましょう
今日のイエス様も、少し似た状況でしたが、大きく違うことをされました。
ゲネサレト湖畔、これは別名ですが、ガリラヤ湖の湖畔でのイエス様の活動の初めのころの出来事でした。
評判のイエス様のお話を聞こうと群衆が押し寄せてきたのですが小高い丘もなく、ちょうどよい教壇のような話をしやすいところをと思われたのでしょう。岸で漁の後の網を洗っていた舟の持ち主に頼んで、それに乗り込んで、少し漕ぎ出してもらいました。そこで船に腰を下ろしてみ名に話をされたのです。どのくらい話されたかは記されていませんが、話が終わって、さて舟を岸に戻そうという時が来ました。しかしイエス様は舟を岸に戻すのではなく、逆に「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われました。
その舟の持ち主シモン、つまりシモン・ペトロは少しの問答をしますが、言われるままにしました。すると、たくさんの魚が獲れ、イエス様の呼びかけに従って、イエス様に従うもの、つまり弟子になっていったというお話でした。
3.振り返り
さて、これを読んで、イエス様の奇跡の力を見るわけですが、それだけだと、それなりの「昔の奇跡の物語」という「ありがたい話」に終わるでしょう。
しかし、ペトロの気持ちを考えてみることが、今の私たちに神様はこの出来事を通して何を語り、何をなさり、何を願っておられるかを聞くことができるようになります。
ペテロの状配はこうでした。1)夜通し苦労したけれど何も獲れなかった。2)収穫がないので疲れが倍増してようやく岸で後片付けをしていた。3)そんなところにやってきて、自分の事情を何も知らないこの人が話をするために舟を貸して少し出してくれと言われた。4)でも、評判の偉い先生だし、この人の願いにこたえてあげようかと思った。5)ようやく話が終わって、岸に戻ってさっさと後片付けを済ませて家で一休み、ひと眠りしようかと思っていた。6)そんな自分の気持ちも知らないで、沖に行って網を打てというのか。7)この漁は夜やるものだから日中にやっても無理なのに、この人は何を言うのか。8)そういえば、この人は大工の息子らしい、漁のことは何も知らないんだ。9)どうせ来るならあの時、夜に漁に出る前に来て言ってほしかった。もう遅いよ…
推測も含めて想像を広げてみると、こういう具合かもしれません。私が父と母のことを思い出して、少し身勝手な母の発言を懐かしく笑った、「そういうなら、あの時言ってくれたらいいのに」「あなたは、専門外で何も知らないくせに」という気持ちも思い出します。そして、上の9つのペテロの心の中のセリフは、良く考えてみると、私たちの人生で何度もつぶやいたことがあると、身に覚えがあるものです。人間関係で、そして、神様との関係でです。そんなことはありませんか?
「人の苦労も知らないで。どうして神様、あの時に声をかけてくれなかったんですか?今じゃあ、もう遅いですよ。それで、もう一度しろっていうんですか?いや、これには難しい事情もあるし、あなたは何もわかっていない。それより、私は今から帰って、ゆっくりしたいんですよ。結果が出なかったいま、非常識にもう一度挑戦することよりも、家でゆっくり寝ることがわたしの願いなんですよ。もう、ほっといてください。人の人生に急に勝手に入り込んできて。振り回されるのはもうこの辺で終わりにしたいです。やってみてダメなら、責任取ってくれますか?」
と、もう少し自分に覚えがある言葉にするとこういう感じでした。そんなペトロに、イエス様は何をされたのでしょうか?「何も知らないくせに」だったのでしょうか?
イエス様は、神様は、そんな気持ちを全部知っておられたのです。だからこそ、「今からもう一度やってみよう。このまま家に帰って『ふて寝』するんじゃなくて、私の言うようにやってごらん。私が責任を取り、保証するから」という促しをして、そして、結果を見せてくれました。これで、ペトロは驚き、自分の罪深さを告白し、自分から離れるよう願いました。それは、自分が遠ざかるのではなくて、舟の上ですから、この自分の罪深い船から降りて遠ざかってください、と願ったのかもしれません。どんな失敗だらけの舟・人生でも、イエス様の願いにこたえようと知らずにしたことが、イエス様を招き入れることになりました。そして、貧しく徒労に終わった罪深い人生と、できるならあの網がいっぱいになるほど魚が取れたら生活も楽になるのに、という願いもすべて神様は知っておられ、予想外の命令をし、それを信じ従った時に、たくさんの恵みをくださったのです。
4. 勧め
神様の呼びかけはいろいろなきっかけがあるでしょう。聖書の言葉や、教会が直接心に響くことも、誰かの言葉を通してという時もあるでしょう。反対に、困っている人を助けてあげようと、その願いにこたえてを貸してあげている時に、逆にイエス様にその手をつかまれ、新しい人生に引き込まれることもあるのです。
教会の働きは、聖書を学ぶだけではありません。勉強が苦手とか、自分みたいな罪深いものがとか、関係ないのです。イエス様にいろいろなきっかけで手をつかまれ、引き上げられれ引き込まれ、不完全さを認めそれ(罪)をゆるされ、新しい人生を始めた人たちの集まりです。一緒に笑い、泣き、祈り合い、助け合う、神の家族の共同体です。さあ、あなたも、いっしょにどうぞ!