2022年2月26日土曜日

週報と説教メッセージ 20220227

 戦争が始まり、心の中の闇を見せつけられます。真っ黒な闇。今日の聖書は、イエスキリストが真っ白に輝いたという山上での出来事が読まれます。真っ黒と真っ白。ブラックアウトとホワイトアウト。いろいろいっしょに考えてみませんか?そして、平和な世界のために、一緒に祈りましょう。行動もしましょう。礼拝でお待ちしています。


聖書の言葉 ルカ9:28~43a (新123)より
9: 28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

説教「真っ白になって/ White Out」徳弘浩隆師
1. ホワイトアウトという言葉
今年は寒い日や雪の積もった日が多かったですね。九州生まれで京都や東京、そしてブラジルで働いてきた私には、初めての本格的な積雪で珍しく楽しい面もありましたが、関ヶ原や垂井、大垣の皆さんにはもう、面倒なことでしかないかもしれません。家から車を出せずに、教会に集まれなくて大変だった日曜日もありました。お見舞い申し上げます。
そんな私も、先月母親の介護手続きで九州へ帰り、大阪・京都・滋賀を通って岐阜に車で帰り着こうという時、滋賀で予想外の大雪でコワい思いもしました。ニュースで見るほどではありませんが、高速道路の前方が降りしきる雪で見えにくくなったからです。その後も何度かの豪雪で、交通事故も多く、ニュースが注意を呼び掛けていたのは、「ホワイトアウト」という言葉でした。何かに驚いて「頭の中が真っ白になる」ということもありますが、これは目の前が真っ白になって、何も見えず、急に現れた前の自動車に衝突し、それが連続して起こるという事故もあり、気の毒な事でした。

2.聖書を学びましょう
今日の聖書は、イエス様が山に登って祈られていると、そのお姿が真っ白になったという出来事です。
「この話をしてから八日ほどたったとき」という書き出しですが、どんなシチュエーションだったか、少し前を読まねばなりません。
イエス様の宣教活動でたくさんの人が教えを聞き、弟子も訓練され、その民衆の心が集まっている噂にヘロデ王は心配になり、人々は奇跡を見、満たされ、弟子のペトロがついに「イエス様がキリスト・メシアである」と理解し告白した後でした。
ここで、イエス様の生涯は、大きな転機を迎えます。みんなが期待した「栄光の王様」ではなく、一番苦しい者と共に生き人々のために「裏切られ捨てられ死んでいく苦難の道」へと舵を切ることになっていくのです。
イエス様は3人の弟子だけを連れて山に登り、祈られます。「するとイエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」のです。そしてペトロ達弟子は、ユダヤ教で律法を代表するモーセと、預言者の代表ともいえるエリアがイエス様と一緒にいるのを見ました。
神の子でありながら、いつも貧しく虐げられている側の人々と共におられたイエス様ですが、この日は天に・神様に「近い」山に登り、ユダヤ教の聖書(いまの旧約聖書)の律法が実現し、預言が成就することを暗示する出来事が起こったのです。
これから向かっていく、イエス様の苦しみ、十字架の死は、予定外のことではなく、失敗でもなく、この方において神の律法が実現し、預言が成就していくことだと示されます。これが、不思議な方法でですが、私たちが悔い改めと赦しをいただく唯一の道なんだということを教えられます。
この日は、「変容主日」といわれ、イエス様のお姿が変わられた日だといわれますが、実は、これが本当の栄光に輝く罪のないイエス様のお姿であり、それを垣間見た瞬間ともいえるでしょう。この方に学び、従って生きていくなら、私たちの真っ黒な心の中や、失敗や涙にまみれた人生は、真っ白にされていくことも暗示しています。

3.振り返り
 私たちの人生はどうでしょうか?イエス様の真っ白なお姿を見て驚き、イエス様をメシアと理解し信仰を告白したばかりのペトロでしたが、彼の頭はそれこそ真っ白になり、理解できず、頓珍漢なことを言ってしまいます。「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と聖書はその時のペトロの混乱ぶりや場違いな言葉を正直に伝えています。
 私たちは、どんな存在でしょうか? 悔い改めて、洗礼を受けて、聖書を学び、教会で奉仕もしても、依然としてまだ、「罪をゆるされた罪人」の集まりです。
 嫌なこともあり、失敗もし、罪深い日々と行ったり来たりすることもあります。傷つけてしまったり、傷ついて誰かを憎んだり疎んだりもします。
 私たちはどうしたら、イエス様のように、真っ白にしていただけるのでしょうか?心の中の闇を消し去ってもらえるのでしょうか?
 ホワイトアウトという言葉の反対は、ブラックアウトという言葉があります。停電して真っ暗になることもそうですが、書類などを真っ黒に塗ってしまうことも意味します。そういえば、政府がいやいや公開した重要書類が、真っ黒に塗りつぶされて、野党議員や被害者が「ほとんど真っ黒じゃないですか!」と批判する映像を見たことがあるでしょう。
 しかし実は、あれを私たちは笑うことができません。私たちも同じようにして生きているからです。心の中に、上から真っ黒に塗りつけて、見えないようにしてしまっている事柄がいくつあるでしょうか。神様から見たら、「表面は正しく一生懸命に生きているように見えるけれど、真っ黒に塗りつぶしているところばっかりじゃないかい?」と言える状態です。どうしたらいいでしょうか?

4. 勧め 
それは、聖書によると、「キリストの血によって洗ってもらう」しかないということです。
真っ黒に塗りつぶした心を、真っ赤な血で洗うとどうなるでしょう。もっとひどくなって何も見えなくなりそうですね。しかし、聖書はこういいます。
「だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いるけれど、彼らは「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とヨハネの黙示録7章にあります。
キリストの苦難の十字架の血は、私たちが流すべき死に値する罪の代価でした。神様の目から見たら生きている価値がない、罪深いものでしたが、キリストの言葉を学び、悔い改めて、新しくされ、いっしょに生きていくことで、帳消しにしてもらい、日々、新たに作り変えてもらえるのです。
そんな、十字架を見つめる季節が始まります。四旬節は、自分の罪を見つめ、身代わりに苦しまれたイエス様を思い、悔い改め静かに生きる期間です。
今週水曜日の、灰の水曜日から始まります。憎しみ会い、殺し合いをTVで見せつけられる苦しい毎日ですが、平和の道具となれるよう、自分の罪を悔い改め、生きていきましょう。
神様は、私たちの罪を、ブラックアウトしてごまかすのではなく、イエス様の犠牲により、ホワイトアウトして、何も罪が見えないように生まれ変わることをしてくださいます。

---------------------------

今日の一枚の写真
祈りと参加を
   

ルーテル世界連盟(LWF)は3月25日に「戦火の停止と国際法の尊重」を訴えた声明を出し、ウクライナの人々やそれを支援するメンバー教会のために募金を始めました。LWF事務局長Anne Burghardt牧師はソ連崩壊で独立を回復したエストニア共和国のエストニア福音ルーテル教会出身です。この募金に応えて日本のルーテル教会でも始まるでしょうが、まず個人的に少し寄付を送りました。参加する人数や地域の広がりも、大きな励ましになるでしょう。ウクライナのドイツ人・ルーテル教会や近隣のポーランド、スロバキア、ルーマニア、ハンガリーなどのルーテル教会が緊急キットや必需品、シェルターや基本医療品、宗教的・精神的サポートに着手し、平和実現のための交渉活動などにも取り組んでいます。対話と支援、そして平和実現を祈りたいと思います。


 

2022年2月19日土曜日

週報・説教メッセージ20200220

ブラジルの集会所で英語や音楽を教えていた中の一人、ブラジル人のTiago(チアゴ)は14歳くらいで、ちょっとわがままで難しい子。ある日帰り際に彼に会い、私は手を振って言いました。「Tiago, Te amo!(チアゴ、チアモ!)」。とっさに口を突いて出たダジャレで「Tiago, I love you!」という意味。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。僕らは人を愛するときに、どんな理由があるでしょうか?難しい人を愛すること、ましてや敵を愛することができるでしょうか?教会で一緒に考えてみましょう。明日もYoutubeとFacebookでも中継します。





聖書の言葉 

ルカ6:27~38 (新113)

6: 27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」


説教「I love you, because…」徳弘浩隆師

1. 大嫌いだから、大好き?

ブラジルのスラム街でそこのブラジル人のお世話をしていましたが、子どもたちの中に、Tiago(チアゴ)という男の子がいました。聖書に出てくるヤコブのポルトガル語の言い方です。14歳くらいのその子は体格のよい子で、少しむつかしいところがある子でした。いうことを聞いてくれないでわがままを言ったり、急に怒ったり、時には友達をたたいたりして、大人を、また仲間の子どもたちを困らせることもある子でした。

ある日、その日のクラスやおやつの時間も終わって、片づけをして大人のスタッフが車でサンパウロに帰る時、道にいるTiagoに会いました。私はとっさに手を振って言いました。「Tiago!」 すると彼が振り向きました。さよならを言おうと思いましたが、なぜか私は「Tiago, Te amo」と言いました。Te amo(チ・アモ)というのは「I love you」という意味ですが、「チアゴ」と「チアモ」は語呂もいいし、とっさに口を突いて出たダジャレでした。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。

一番頭が痛い、いわゆる「面倒な子」「問題児」ともいえる子ですが、それから彼の名前と、ポルトガル語でいう「I love you」の言葉はセットで思い出し、呼びかけるようにもなりました。

ダジャレの続きの面白いオチも思いつきましたが、スタッフの大人には言っても、彼には言わなかったと思います。それはこういう具合です。「どうして先生が君のことを愛しているか知ってる?」という意地悪な質問をして、「どうして?」と聞かれるとこう答えてギャフンと言わせたかったのです。「それはね、イエス様は言われたでしょ。敵を愛しなさいって。だから、君が大嫌いだから、君を愛しているって言ったんだ」と。

そんな意地悪なことを言って「思い知らせる」ことはしなくても、彼に教会でパソコンや音楽や聖書を教えながら一緒に過ごした数年間で、ずいぶん落ち着いて柔らかい子になりました。

2.聖書を学びましょう

今日の福音書のイエス様の言葉は、分かりやすいですが、難しいことを言われています。「敵を愛しなさい」というからです。愛せないものに対して、どうしてこんなことができるでしょうか?

では、そもそも、どうして愛せないのでしょうか?

イエス様が「愛せよ」という命令の言葉を聞くと、愛することが出来ない理由はこういうことになります。「あなたを憎む、悪口を言う、侮辱する、頬を打つ、上着を奪い取る」からですね。もっともです。

逆はどうでしょうか? 人々が誰かを愛したくなる理由は、イエス様の話に出てくる順でいうと、こういうことでしょう。「自分を愛してくれる、良くしてくれる」から、ということですね。これももっともな話です。しかし、それの反対をしなさいと言われると、実際には難しいことばかりです。

3.振り返り

私たちが何かを、誰かを、愛する基準、理由は何でしょうか?それは、「自分にとって何かメリットがあるかどうか」という尺度が大きいでしょう。

自分にメリットがある、心地いい、うれしい、は自然に人の心を開かせます。

TVコマーシャルの世界で昔から「3B」というキーワードがあるといわれます。「これに当てはまったCMは、だいたい評判がよく、ものがよく売れる」そうです。その3つのBとは、Beauty, Baby, BeastのBです。いわゆる「美人、美男子」と「赤ちゃんや子ども」、そして「(かわいい)動物」が出てくると、だいたい無条件で人は心を開き、動かされ、受け入れやすいというのです。製品の機能や安さや便利さをデータで示すよりも、人々がその製品に心を動かされ、購入頻度も上がるらしいのです。TVでCMを見るときに、今度気にしてみてみてみると、面白いかもしれません。

ブラジルでも別の「3B」という言葉を教えられました。買い物でお店の人が進めるとき、「これは3Bです」と冗談でよく言われます。それは、Bom, Bonito, Baratoでこれらは「いい(良いや美味しい)、きれい、安い」という言葉のことで、これも納得がいきます。

私たちは、知らずのうちにこういう尺度を持ち、こういうものを探し、大切にし、心動かされます。しかし、神様の尺度は、これらとは、違うようです。ここで私たちが考えさせられることは、「愛することに理由があるのか?」「理由が要るのか?」ということです。

私が冗談でTiagoに「どうして先生が君を愛しているか知ってるかい?」と聞いて、「どうして?」と聞かれたら、こんな答えが考えられます。

1)私が冗談で言ってやりたかったように、「イエス様が敵を愛せと言われたから、敵のように大嫌いな君を愛しているんだよ」と。これはいただけません。

2)「君がとってもいい子で、素直でかわいらしくて、優しくて、よく先生の言うことを聞いてくれるからだよ」とか、「君のお父さんがたくさん教会や学校に寄付してくれるらかだよ」かもしれません。これもだめですね。

3)「いや、理由なんかないよ。一人一人、とっても大切だからだよ」「神様は、誰でも、みんなのことを愛しているからだよ」でしょうね。

 計算高いのではなく、自分への見返りを求めるのでもなく、神の愛は、条件や理由などないのです。

4. 勧め 

昔の宣教師が聖書の言葉を伝えるときに、あまりなじみのない「愛する」という言葉は使いませんでした。日本の当時の人たちにわかりやすく、また勘違いされないような、適切な言葉を探しました。そして、「ご大切」という言葉に行き当たったそうです。

「神は愛なり」は、「神様はあなたを、ご大切になさる方ですよ」となるかもしれません。「神様」も神道の神様と誤解されてもいけないので、宣教師のポルトガル風に「デウスさまは」とか、それを日本語に当てた「天主様は」となっていたかもしれません。でも、「愛する」は「大切にする」です。 神様は、どんなに自己中心でわがままで、かけだらけのものでも、愛しておられる。「ご大切」にしてくださる。そんな方だと、条件なしの愛を、イエス様は説かれたのです。

そして、「言うだけ」でなく、この神の愛を説かれた方は、人々が頬を打つときに、衣服をはぎ取り、命を奪う時に、「自分から与えているので、彼らを輸してあげてください」と祈ってくれた神の愛の方だったのです。神様の愛を受けて、赦され、人を愛し、助け合ういのち、それが神様の願いです。それが私たちの本来の生き方です。それが誰もが生きやすい、本来の姿です。

そんな生き方を、少しずつ、一緒にしませんか?神様の祝福がありますように。


2022年2月17日木曜日

世界祈祷日2022のプロモーションビデオ

カナダの超教派キリスト教会女性会の作成した、今年の世界祈祷日のためのプロモーションビデオがありました。ちょっと見てみませんか?


2022年2月12日土曜日

週報・メッセージ20220213

落ち葉を掃除しても風に吹き飛ばされて元の木阿弥。そんなことありませんか?教会の牧師館に住んでいると、よくある話です。妻と二人、頭を抱えて、何度も何度も掃除… まてよ。これは、僕らの人生かもしれません。聖書にそんなところがあったな。 どうすればいいでしょう? 礼拝で考えましょう。大垣教会でメッセージしますが、YoutubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。






聖書の言葉 
詩篇1:1-6 
1いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 2主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。5神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。6神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ルカ6:17~26 (新112) 
6: 17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。

説教「風に吹き飛ばされる もみ殻」 徳弘浩隆師
1. 「つたのからまるチャペルで」…は素敵?
「蔦のからまるチャペルで 祈りをささげた日~♪」という有名な歌があります。教会の一つのイメージで、それは素敵な、神聖な、祈りの場所です。しかし、興ざめするかもしれませんが、教会に住んでいる牧師からすると、ちょっと面倒なことでもあります。雑草を刈って、からまった蔦を引き抜いて、フェンスから丁寧に外していかなければならない、夏の毎週の作業が待っているからです。去年は岐阜教会は奉仕者も得て草刈りをして、防草シートを敷いて、上に茶色の瓦チップというのを敷設しましたので、それ以降はだいぶきれいに、楽になりましたけれど。
さて、草刈りの跡がまた大変です。秋の落ち葉も同じです。風が強い日は何度ほうきで掃いても、集めても、吹き飛ばされて元の木阿弥。隣の家の駐車場にも広がってしまって、妻が悲鳴を上げながら集めます。
今日の聖書の詩編の冒頭部分、「神に逆らうものは、風に吹き飛ばされるもみ殻」という言葉は、身に染みます。神に従うものと、神に逆らうものの人生を、そんな風にたとえています。それは、何度頑張っても、うまくいったと思っても、風が吹けば吹き飛ばされて元の木阿弥。いや、もっと状況はひどくなり、手に負えなくなる。そして実は、吹き飛ばされるもみ殻や落ち葉の方が、行き場のない自分の人生。それが、神様に従わない者の人生といわれます。なるほど、そうだなぁと、思い知らされます。

2.聖書を学びましょう
今日の福音書のイエス様の言葉も、何が幸いで、何が不幸かということを話されています。詩編のストレートな言葉と違い、イエス様のお話しは少しびっくりするような予想外の言葉で、人々の心に訴えています。
それは、「貧しいものは幸いだ」といわれるからです。誰でも、貧しさより豊かさを願います。飢えよりも満腹を、泣くことよりも笑うことを、憎まれるよりもほめられ好かれることを願います。しかし、その逆の、私たちが願わないことの方が「幸せなんだよ」と言われました。これは、どう理解したらよいのでしょうか?
その理由は、不幸な人のことを言うイエス様の言葉を聞くと分かります。彼らはすでに、慰めを受け、満腹し、称賛を受けている、つまり、満足してしまっているからということがカギです。満足そのものが悪ではないでしょう。そのとき人間が陥りがちな落とし穴が問題なのです。
それは、満足して神様に感謝して、人にも分け与えるのではなくて、自信過剰になり、もっと独占しようとする心の動きが、私たち人間にあるからです。そんな自己中心の心、どうしようもないくらい罪深い心を持った私たちのことを、聖書は「罪人(つみびと)」と言います。自分を愛し、人を疎んじる。幸せを感じ、苦しい時のことや苦しんでいる人のことが見えなくなる。それが私たちの哀れな姿です。
それよりも、貧しく、悲しく、飢えている時の方が、神様に頼まざるを得ない謙虚な時の方が、本来的な神様との関係が保てるというのです。

3.振り返り
私たちはどうでしょうか?貧乏をしたことがあると、その時の心細さを知っているから、安定してきたときに神様に感謝して、苦しみの中にいる人たちを助ける心があり続ければいいのですが。また苦しくなってはいけないと、せっせとため込んで他の人のことなど気にしなくなるかもしれません。挿絵にあるように、風に吹き飛ばされる紙幣を追いかけ、自分の豊かさだけを追い求めて走り切る人生は、終わりの頃には幾分たまるかもしれませんが、目の前にはもう終わりが迫っているのです。もちろんお金も大切です。しかし、こんな最後まで安心できない人生を送ってはいないでしょうか?
私たちは、喉元を過ぎれば熱さを忘れますが、それを忘れないためにはどうしたらいいのでしょうか?今日の福音書の最初にもカギがあるように思います。
マタイが伝えたイエス様の姿と、ルカが書き記して伝えた姿には視点の違いがあります。マタイは、旧約聖書をたくさん引用しながら、イエス様は預言されていたモーセのように人々を解放する方、神様との仲介をしてその言葉やおきてを伝え、奇跡をする方という印象が強くあります。だから、「山上の説教」といわれるように、山の上で人々に語った日のことを書き残しています。モーセが山に登り十戒を得てきて人々に伝えたのをほうふつとさせるようにです。
しかし、ルカは山の上ではなくて、「彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」のです。そういえば、先週のイエス様の説教をした場所も、小高いところではなくて、みんなを小高い岸辺において自分は小舟に乗って湖からみんなに語りました。ルカは、高いところから来られた神の子や預言者ということよりも、低くされた人、苦しみあえいでいる人たちと同じところにいるイエス様の姿や姿勢・生き方がたくさん伝えられているのです。

4. 勧め 
ユダヤの民も、他国で寄留の生活をし、奴隷のような境遇に苦しんだ歴史がありました。だから神様は「寄留の民を愛しなさい。あなた方もかつてそうだったのだから」という掟が旧約聖書の中にすでにあります。しかし、そこから救われると、他の民を圧迫し見下すようなところがありました。「自分たちは選ばれた民で、特別なんだ」と、救われた出来事を思い出す過越祭などを大切にしますが、他者を愛し助けるようにという神の愛の勧めは忘れていました。今日のイエス様の教えはそんな状況の上にも立っているのです。
あなたはどんな苦しさを体験しましたか?それから解放されたら、「やれやれ、よかった」ではいけません。かつて自分がそうだったから、そういう人に手を差し伸べるよう、促されています。それぞれ違っていいのです。潜り抜けてきた人生が違うからです。寂しかった、苦しかった、辛かったその思い出は、閉じ込めるのではなくて、神様に開放していただいたことを思い出し、そんな人に自分は出会っていきましょう。そのとき、あなたの差し伸べる手は、あなたが聞いてあげる耳は、キリストの手、キリストが聞いて下さるやさしい耳になります。
祈りましょう。「神様、私をキリストの手にしてください。耳に、口にしてください。この世界で苦しんでいる人に、神様の救いと愛を伝えさせてください。」
みんなの幸せは、そこにあるはずです。


2022年2月5日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220206

あすは、徳弘牧師は岐阜教会で礼拝メッセージをします。大垣でも、信徒礼拝があります。どうぞ、おいでください。でも、大雪警報も出ました(現在)。おきをつけて、またはむりされないで。YoutubeやFacebook中継もあります。




聖書の言葉 

ルカ5: 1~11 (新109)

5: 1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。。


説教「何をいまさら、という時でも」 徳弘浩隆師

1. 「だから、あの時そう思ったんだ」と…

大変な失敗をした後、落ち込む気持ちに追い打ちをかける言葉がありますね。「やっぱり、そうなると思っていたんだ。どうしてそれが分からなかったのかねぇ」という言葉です。

全然関係ない人で、あとから聞いた話でそう言われるならまだしも、「一緒にその場にいて、その時は何も言われなかったのに、今になってあなたが言うのか?」という状況の時があります。

最近は母の入院で父とは二人だけでいろいろと話すことがあり、急に一人暮らしになってしまった父は少し寂しい思いをしながらでしょう、多少自虐的な事でも思い出して話すことがあります。二人で笑いながら意気投合しました。

それはこんな具合です。「少し車の運転が下手になってきたかなぁと思うことがあるんだ」と私が言うと、父の話が始まります。「父さんも歳を取って下手になってきて、ちょっとしたところで車をぶつけたりしたよ。若いころは上手だったけど、つい標識を見逃してスピード違反で捕まったりしたなぁ」と。そして「そういう時いつも母さんに怒られたもんだ。『どうしてこんなことに気付かなかったの?私はここ危ないと思っていたのよ』」と。そして二人の共通の意見はこうです。「そうだそうだ。ああいうの、いつも後から言うんだよね。私は分かってたって。本当だったら、どうして、その時言わないのかねぇ。しかも、自分は免許持ってなくて運転しないのにねぇ」と二人で大笑いするのです。

もちろん、陰で悪口を言うのではなくて、母親がいなくて寂しくて、二人でしみじみと笑うのですが。

そこには二つの論点があります。「あの時は何も言わなかったのに」、ということと、時には「あなたは専門外で何もしらないくせに」ということです。

2.聖書を学びましょう

今日のイエス様も、少し似た状況でしたが、大きく違うことをされました。

ゲネサレト湖畔、これは別名ですが、ガリラヤ湖の湖畔でのイエス様の活動の初めのころの出来事でした。

評判のイエス様のお話を聞こうと群衆が押し寄せてきたのですが小高い丘もなく、ちょうどよい教壇のような話をしやすいところをと思われたのでしょう。岸で漁の後の網を洗っていた舟の持ち主に頼んで、それに乗り込んで、少し漕ぎ出してもらいました。そこで船に腰を下ろしてみ名に話をされたのです。どのくらい話されたかは記されていませんが、話が終わって、さて舟を岸に戻そうという時が来ました。しかしイエス様は舟を岸に戻すのではなく、逆に「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われました。

その舟の持ち主シモン、つまりシモン・ペトロは少しの問答をしますが、言われるままにしました。すると、たくさんの魚が獲れ、イエス様の呼びかけに従って、イエス様に従うもの、つまり弟子になっていったというお話でした。

3.振り返り

さて、これを読んで、イエス様の奇跡の力を見るわけですが、それだけだと、それなりの「昔の奇跡の物語」という「ありがたい話」に終わるでしょう。

しかし、ペトロの気持ちを考えてみることが、今の私たちに神様はこの出来事を通して何を語り、何をなさり、何を願っておられるかを聞くことができるようになります。

ペテロの状配はこうでした。1)夜通し苦労したけれど何も獲れなかった。2)収穫がないので疲れが倍増してようやく岸で後片付けをしていた。3)そんなところにやってきて、自分の事情を何も知らないこの人が話をするために舟を貸して少し出してくれと言われた。4)でも、評判の偉い先生だし、この人の願いにこたえてあげようかと思った。5)ようやく話が終わって、岸に戻ってさっさと後片付けを済ませて家で一休み、ひと眠りしようかと思っていた。6)そんな自分の気持ちも知らないで、沖に行って網を打てというのか。7)この漁は夜やるものだから日中にやっても無理なのに、この人は何を言うのか。8)そういえば、この人は大工の息子らしい、漁のことは何も知らないんだ。9)どうせ来るならあの時、夜に漁に出る前に来て言ってほしかった。もう遅いよ…

推測も含めて想像を広げてみると、こういう具合かもしれません。私が父と母のことを思い出して、少し身勝手な母の発言を懐かしく笑った、「そういうなら、あの時言ってくれたらいいのに」「あなたは、専門外で何も知らないくせに」という気持ちも思い出します。そして、上の9つのペテロの心の中のセリフは、良く考えてみると、私たちの人生で何度もつぶやいたことがあると、身に覚えがあるものです。人間関係で、そして、神様との関係でです。そんなことはありませんか?

「人の苦労も知らないで。どうして神様、あの時に声をかけてくれなかったんですか?今じゃあ、もう遅いですよ。それで、もう一度しろっていうんですか?いや、これには難しい事情もあるし、あなたは何もわかっていない。それより、私は今から帰って、ゆっくりしたいんですよ。結果が出なかったいま、非常識にもう一度挑戦することよりも、家でゆっくり寝ることがわたしの願いなんですよ。もう、ほっといてください。人の人生に急に勝手に入り込んできて。振り回されるのはもうこの辺で終わりにしたいです。やってみてダメなら、責任取ってくれますか?」

と、もう少し自分に覚えがある言葉にするとこういう感じでした。そんなペトロに、イエス様は何をされたのでしょうか?「何も知らないくせに」だったのでしょうか?

イエス様は、神様は、そんな気持ちを全部知っておられたのです。だからこそ、「今からもう一度やってみよう。このまま家に帰って『ふて寝』するんじゃなくて、私の言うようにやってごらん。私が責任を取り、保証するから」という促しをして、そして、結果を見せてくれました。これで、ペトロは驚き、自分の罪深さを告白し、自分から離れるよう願いました。それは、自分が遠ざかるのではなくて、舟の上ですから、この自分の罪深い船から降りて遠ざかってください、と願ったのかもしれません。どんな失敗だらけの舟・人生でも、イエス様の願いにこたえようと知らずにしたことが、イエス様を招き入れることになりました。そして、貧しく徒労に終わった罪深い人生と、できるならあの網がいっぱいになるほど魚が取れたら生活も楽になるのに、という願いもすべて神様は知っておられ、予想外の命令をし、それを信じ従った時に、たくさんの恵みをくださったのです。

4. 勧め 

神様の呼びかけはいろいろなきっかけがあるでしょう。聖書の言葉や、教会が直接心に響くことも、誰かの言葉を通してという時もあるでしょう。反対に、困っている人を助けてあげようと、その願いにこたえてを貸してあげている時に、逆にイエス様にその手をつかまれ、新しい人生に引き込まれることもあるのです。

教会の働きは、聖書を学ぶだけではありません。勉強が苦手とか、自分みたいな罪深いものがとか、関係ないのです。イエス様にいろいろなきっかけで手をつかまれ、引き上げられれ引き込まれ、不完全さを認めそれ(罪)をゆるされ、新しい人生を始めた人たちの集まりです。一緒に笑い、泣き、祈り合い、助け合う、神の家族の共同体です。さあ、あなたも、いっしょにどうぞ!