2022年1月29日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220130

今日はルーテル岐阜教会で説教をします。FacbookやYoutubeでもどうぞ。大垣教会でも信徒礼拝があります。または、お近くのルーテル教会にも一度行ってみませんか?



聖書の言葉 
エレミヤ1: 4~10 (旧1172)

1:4主の言葉がわたしに臨んだ。5「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」6わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。
ルカ4:21~30 (新108)
4:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


説教「恐れずに畏れる」 徳弘師
1. 「今日の会議はすぐ終わると」と思ったら…

「今日の会議はもめることはないだろうから、早く終わるだろう」と思っていたら、予想外に議論になって長引いた挙句、何も決まらず次回へ持ち越しになった、ということが先月ありました。「大丈夫です、だいたい話は通っていますから、集まって1時間くらいで終わるでしょう」と言われてはるばる出かけて行ったのにふたを開けると大違い。長い話し合いで、ふらふらになって、達成感もなく帰りの車を運転して帰りました。今回は「今度はあまり期待しないで、ゆっくり話し合おう」と思っていたら、予想通り紛糾したけれど、肩の力を抜いて正直に困惑と考えられるほかの可能性を口にしてみたら、説得口調でもなかったのに、最後は意外とそこに落ち着きました。参加者それぞれは悪気がある訳でもなく、目的が違うわけでもないのに、一生懸命に思えばこそ、意見が合わないこともあり、予想外に反対されたり批判されたりすることもあるものですね。会議ではなくても、「簡単な用事と思って出かけたら大変面倒なことになってしまって…」ということなら誰でもあるかもしれません。
正論を訴えても理解されないこともあるかもしれません。予想外にややこしくなって収拾がつかなくなることもあります。間違っていなくても、みんなから「叩かれ」て、嫌われることもあるものです。

2.聖書を学びましょう
今日のイエス様は、そんな目に合われたようです。私たちとは次元はずいぶん違うかもしれませんが、神とともに生きていても、神のことばを語っても、歓迎されるだけではなく、批判され、字通り崖から追い落とされそうになる出来事に私たちは驚きます。今日の聖書では、ここに現れる人々の心のありさまは、また神様の視点は、どういうことだったのでしょうか?聖書を読んでいきましょう。
今日の聖書個所は、先週の続きです。というか、先週の終わりの言葉のところがもう一度読まれ、今日はそこから始める続きの出来事です。ご自分が育った故郷の街の会堂に安息日にイエス様はいかれました。聖書が読み上げられ、イエス様が説教・つまりその説明を始めたところ、みんなはそれに感心し、驚いたのでした。しかし、みんなが驚いただけならよいのですが、思わぬ方向に向かいます。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」たのですが、感激して聞き従ったのではありませんでした。彼らの口から出た言葉はこうでした。「この人はヨセフの子ではないか」と。
それに対して、イエス様は、「預言者は故郷では歓迎されないものだ」といわれ、「ここは故郷だからここでもいろいろ良いことをしてくれよ、とばかりに言うのだろう」という具合に人々を諫めます。
すると「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」と恐ろしい展開になっていくのでした。崖ぶちに背を向けたイエス様の挿絵がありますが、危機一髪の展開になります

3.振り返り
さて、この挿絵を見て、私はどこにいるでしょうか?もちろん自分の絵はここには描かれてはいません。しかし、ちょうどこんな状況になる時があるかもしれません。崖を背にして神様の言葉を語るイエス様の側でしょうか?それとも、イエス様を指さし、こぶしを上げて非難する側でしょうか?
私には、両方の立場が、その時に応じて、あると思わされます。神の側で攻められるとき、群衆の側で神を責める時。私たちの祈りもそうでしょう。「どうしてこの人たちは分かってくれないんだろう」と優しい気持ちで崖を背にして人々を見る時と、「どうして神様は分かってくれないのか!」と神様に迫る時です。
私たちがこの状況を客観的に理解し、間違えないために、また、責められてつぶれそうになる時、どうしたらよいのでしょうか?
その答えは、今日の旧約聖書に日課を読むと、ヒントを得ることができます。エレミヤが預言者として、つまり、神の願いや計画を人々に告げる職務につかされる時に、彼は何とか断ろうとします。「生まれる前からあなたを選んでいたんだよ」といわれると、「いいえ、まだまだ若いですから無理です」と断ります。
しかし、そこで神様はこういわれました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と。
その人がどういう生まれだとか、どんな能力や経験があるかとか、それは、神様の選びには関係がないようです。逆にそればかりを気にするので、自信がなくなったり、恐れたりするものです。
イエス様の説教を聞いた人たちは、その口から出る恵みふかい言葉に驚いたのです。しかし、その反応は、生まれや育ちを知っているゆえに、低く見たのでした。又は逆に、各地で奇跡を起こしたそうだから、昔なじみの自分たちにはもっといろいろ良いことをしてくれないだろうか、と、見当違いの期待をしたのでした。それは、両方とも、神様の視点ではなく、人間の視点でした。相手を過小評価するのも、過大評価するのも、人間的な付き合いや視点だったのです。
今日の旧約聖書は今日の私にも語り掛けます。「若いからと言ってはいけない」神様が遣わすのだから、神様が命じる言葉だから、神様が一緒にいてくれるから」その言葉や使命は、尊く、恵みふかいものなのです。だから、恐れなくてよいのです。

4. 勧め 
 神のことばにおそれ入った人々は、神をうやまい「畏れる」べきでしたが、人間の目で見てその人の弱さや逆のすばらしさを心配し「恐れた」のでした。私たちも、人に奉仕をしても理解されず傷つくときもあります。聖書の言葉を伝えても誤解されうまくいかず辛い時もあります。一人、崖っぷちに追い込まれたような気持になることもあるでしょう。
しかし、人間の目で恐れず、神を畏れうやまいこの方に従う時に、道が開けます。人にすぐに理解されるためにやっていることではありません。神様の願いだから、その人のためだから、嫌われても、ただ奉仕し、神の愛を伝える人になりたいですね。
牧師の働きも、また牧師に対する教会メンバーの在り方にも同じことが言えるでしょう。牧師が交代する時も、このことを大切にし、若い牧師でも神が立てた方を迎え、一緒に宣教していただきたいと思います。もちろん、立てながらも、誠意をもって進言したり話し合って一緒に道を開いていくものになりましょう。
あちら側でもこちら側でもなく、私たちはみな、神様の側です。そうして一緒に生きる共同体が、教会なのです。祝福を祈ります。

2022年1月22日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220123

   今日は私はルーテル大垣教会で礼拝メッセージをします。岐阜教会でも、礼拝はあります。そして、オンラインもあります。どうぞ、おいでください。


聖書の言葉 

ルカ4:14~21 (新107)

4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


説教「今日実現する」 徳弘師

1. 「締切り」の苦しさ「満期」の嬉しさ…

私たちの人生には、何かと「締切り」があります。仕事柄、そんなことに追い回されているという方もおられるでしょう。私も広報室長になり機関紙「るうてる」を編集していたころそうでした。原稿を依頼して集め、自分もいくつか記事を書き、写真やイラストを編集し、それらを紙面に割り付け編集し、業者にデータを渡す日が毎月決まっていました。原稿が集まらなかったり、予定が急に変わって記事を差し替えたり、パソコン編集に切り替える前は業者の人が受け取りに来ていたので、応接室で待ってもらって汗をかいて仕上げたり、付き合いが長くなるとその人のご自宅による車で届けたりするときもありました。

反対に「満期」という嬉しいこともあります。もう少し辛抱したらその日が来るから、もう少し我慢しようと思います。昔は、年季奉公が終了するというのがあったようです。今なじみ深いのは定期預金が満期になるというのがあるかもしれません。私も、日本に帰国して日本での生活を再出発するときに、生活用品や車を買い替え準備して大変な時もそれなりにありました。月末にお金の心配をし、支払期日があるものに追われるという生活は誰にもあるでしょう。私も海外生活でわずかな貯金を使い果たし、帰国後の数年して一つの定期預金が「満期」になり、大した金額ではありませんでしたが、ほっと一息ついたことを思い出します。

今日の聖書を読んで、そんなことをしみじみと思い出しました。それは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様が言われたからです。「今日実現した」とは、何が実現したのでしょうか?今の私たちにどんな関係があるのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

イエス様は育った町のなじみの会堂に入りました。今の私たちからすれば、「こどものころから通っていた教会」というイメージでしょう。会堂とは、かつて国が滅びバビロン捕囚として異国にいたころから、エルサレム神殿ではなくそれぞれの街に建てられた礼拝所で安息日に礼拝をすることが彼らの信仰の大切な拠点になっていました。「シェマ・イスラエル(イスラエルよ聴け)」という申命記4節の祈りと信仰告白を皆で唱え、聖書が朗読され、会堂司が依頼した人によって聖書の解き明かしがされていたそうです。当時の聖書とは、今でいう旧約聖書の一部分で、そのモーセ5書、律法と預言書の中から一部分が読まれたのです。当時の習慣により、イエス様も何日か前に会堂の係から説教することを頼まれていたのだろうと理解されています。

さて、その日読まれたのは、今日の福音書で18.19節に引用され触れられているところでした。それは、イザヤ書の61章からでした。これは偶然ではなく、聖霊による導きだったのです。そこに書かれている預言が大切で、「それが、今日実現した」とイエス様は解説を始められたのです。

何が実現したかを知るためには、今日のイザヤ書を考えねばなりません。それは、「主の霊がとどまり、貧しい人に福音を告げ知らせるために私に油を注がれた。主が私を遣わせたのは、捕らわれ人の解放、目の見えない人の回復、圧迫されている人の自由」が訪れるためだと書かれています。そして、「主の年の恵みを告げ知らせるため」ともイザヤは預言しているのでした。

次に私たちは、安息日とヨベルの年について学ばなければなりません。神様は6日間働いて7日目は休むよう定められました。それが、「安息日」です。安息日を意味するヘブライ語の「シャバト」はそのまま今でもポルトガル語やスペイン語、インドネシア語でも「土曜日」の意味で使われています。多くの人は、語源を知らずに土曜日を「安息日」と今でも呼んでいます。

そして7年目の年を「安息の年」と呼んでいました。この年は畑を休ませる規定で、耕作は許されていませんでした。たくわえとともに、自然にできたものを土地の所有者ではない人とともに分け合って生きる一年でした。人も、自然も休ませるべきだ、自然を大切にして分け合って生きるべきだと、今の私たちが学ばねばならない事が決められれていたのです。特にコロナ禍の今、心にとめさせられます。

そして、その安息の年が7回巡ってきた翌年、つまり50年目を「ヨベルの年」と呼んでいました。「ヨベル」とは、安息日のはじまりと終わりの合図として、会堂の屋上からラビが吹き鳴らす「雄牛の角笛」のことでした。英語ではJubileeと言います。さてこの「ヨベルの年」は特別な意味が込められていました。その年には三つのことが行われると規定されていたからです。それは、1)畑の休耕、2)売られた土地の返還、3)奴隷の解放でした。畑は安息の年と同じように休ませ自然を大切にし、皆で分け合って生きること。買った土地も元の持ち主に返し、借金がある人は帳消しにされ、奴隷は解放されて家族のもとに帰ることができたのです。レビ記25章に規定されています。

厳密にそれが実施されていたかどうかは確証がないそうですが、聖書に規定されていたそれらの伝統を知り、生きていた彼らが待っていたのは、このような年が巡ってきて、すべてが解放される時だったでしょう。

それに加えて、油注がれた者、つまり本当の王様が立てられ、今の難しい世の中を解決してくれる、メシアを待つ気持ちがあり、ローマ帝国の支配に苦しんでいた当時の人々はそれが頂点に達していたのです。

それを知り味合う時に、今日のイエス様の言葉の意味がしみじみと理解されるのです。

3.振り返り

さて、今の私たちにとって、何が実現したらうれしいでしょうか?今読んできたのと同様、積み重ねてきた問題、膨れ上がった借金、ややこしくなってどうにも解決できない問題、それらを抱えて生きていませんか? それらすべてを解決してくる日が来るなら、その日が待ち遠しいと思います。

年季奉公が終わり、いよいよ務めを果たして自由の身になれる。あるいは、毎月末に少ない残金をやりくりして何とか月を越していたけれどようやく定期預金が満期になるので一息つける。そんな気持ちは想像しやすいでしょう。奴隷制度はピンとこないかもしれませんが、奴隷のような生活で苦しんできたけど、自分の身を買い戻してくれて、自由になれる年、それがヨベルの年です。教会の用語で、「贖われる」という言葉は実はこの「買い戻してくれる」という意味を持っています。洗礼を受けるのはそういうことです。

4. 勧め 

 単に「今日、実現したよ」「いいことがあるよ」ではなくて、これらの意味を重ね合わせながら、すべての問題を解決してくれる、待ち遠しかったその日が来た、ということでした。もうこれからは、借金取りを気にしなくてよい、苦労して人に使われることもない、離れていた家族のところに帰れる、のです。そして、それは神様との関係でもそうです。もう、安心していい。びくびく恐れなくていい。借金を帳消しにしてもらったように、今までの罪を赦してもらった。そんな特別の年、いや「特別の時」が来たのです。

 ポルトガル語やスペイン語ではこのヨベルの年を語源にして、定年退職することをJubilarと言います。あくせく仕事をしなくて良い、解放された。後は悠々自適の年金暮らしだ、という気持ちが込められています。今の日本でこれからの「年金暮らし」は、たくさんの不安があるかもしれませんが、それは自分も選挙して政治参加して改革をお願いすることにして、「あとは国が養ってくれる」という安心感を考えるなら、「あとは神様が養ってくれる」という安心感を考えると理解しやすいでしょう。

私たちの信仰生活は実は、そんな意味もあるでしょう。もう何も心配しなくていい。神様と一緒に、悠々自適の生活を、いたしましょう。それは、イエスキリストがいてくださるから、実現したのです。一緒に、この方のことばを聞きながら、安心して生きていきましょう。


2022年1月15日土曜日

週報と説教メッセージ 20220116

 礼拝は、YouTubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。 


聖書の言葉 

ヨハネ2: 1~11 (新165)

2:1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


説教「この人が言えばその通りに」 徳弘師

1. 水がお酒になったといえば…

今日の聖書の伝える物語は、イエス様の最初の奇跡とも言われるカナの婚礼での出来事です。

とても有名なお話で、その名にちなんだワインも売られています。それは、パレスチナ原産でエルサレムの西方、ラトゥルンの丘のトラピスト会のラトゥルン修道院で作られている「Cana Wedding Wine」といいます。日本でも買えます。聖書にあるカナはガリラヤですからもっと北の地方で、そこには聖書のカナの地だといわれる史跡やそこに建てられた教会もあり、このワインが作られている修道院の場所とは違います。もっとも、聖書にあるカナだろうといわれる場所は諸説あって、確定しているわけでもありません。しかし、一度このワインを飲んでみたいという気にもなるものです。ご利益にあずかるというような気持ではなくて、イエス様のことを思いながらですね。

そんなことを考えていると、「まてよ、似た話を日本でも聞いたことがあるなぁ」と思い浮かぶ話があります。それは、並べて考えてみると不謹慎かもしれませんが、岐阜県にある「養老の滝」です。こんな話ですね。

昔、貧しいきこりが、谷深い岩壁から流れ落ちる水を眺め、「あの水が酒であったらなあ』と老父の喜ぶ顔を思い浮かべたとき、岩から滑り落ちて気を失っていました。しばらくして、気がつくと、酒の香りがするので、あたりを見回すと、近くの岩の間から、山吹色の水が湧き出ており、なめてみると酒の味がしました。これを汲んで帰って、老父に飲ませたところ、大変喜び、すっかり若々しくなりました。

国や宗教を問わず、どこでもこの手のお話があるのか?とも思いますね。

そして修道院ではいろんなご当地の伝説を盛り込んだお菓子やワインなどは話題に事欠きません。日本で昔流行った白ワインのマドンナというドイツワインは、ドイツではLiebfrauenmilchとい呼ばれるものですがその意味は「聖母の乳」という意味。日本語でその名で売り出してもわかりにくいので聖母マリアを意味するマドンナという名前にしたのでしょうか。幼子イエスに授乳する聖画がありますが、ドイツのヴォルムスの聖母教会にちなんだ名前だそうです。ちなみにこのヴォルムスはルーテル教会にも大切な街で、1521年に帝国議会にルターが召喚され、自説を撤回するように迫られたけれど拒絶し、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたといわれる場所です。そんなことに思いをはせながら、味わうのもいいかもしれません。

さて、今日も雑学はこのくらいにして、イエス様のこの奇跡は、これらのご当地の話と何が違うのでしょうか?私たちにどんなメッセージを語っているのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

先週はイエス様が洗礼を受けられて、メシアとしての生涯を始められた転換点になる出来事でした。そして今日は、弟子たちの召命に続いて、イエス様の最初の奇跡が取り上げられています。

母マリアやイエス様と弟子たちは、婚礼に招かれたのですが、その大切な日のワインが足りなくなって困りました。マリアの相談を聞いたイエス様が言われる通りに、水がめに水を入れるとそれがぶどう酒にかわったというのです。そして人々は大変驚きました。

歴史の中での聖画ではよく、壷が描かれていますが最近の聖書訳では研究や時代考証をしていて「石の水がめ」と書かれています。そしてもっと新しい翻訳では水の単位は分かりやすく「80から120リットル」と書かれているものもあります。右の絵の良いところは、水がめにワインではなくて水を「ドバドバ」と入れている決定的瞬間とでもいうところでしょうか。今でいえば「食品偽装の瞬間」ともいえるかもしれません。

3.振り返り

さて、今日の聖書のお話は私たちに何を問いかけ、教えているのでしょうか?

養老の滝の話のように、親孝行をしようとして水がお酒にかわった美談と、そこからくる道徳的教えでしょうか?そうではありません。むしろイエス様は、マリアに冷たく返事をしたのです。「私の時はまだ来ていません」と。しかし、その後が大切です。マリアは召使たちに言いました。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と。それを聞き逃してはいけません。自分にはわからない事でも、あるいは場違いなことをお願いしてしまって退けられたように感じたかもしれないけれど、「この方の言うとおりにしてください」という信頼、信仰へとも成長発展していく姿があったのでしょう。それで、その通りになったのでした。頼まれた召使にしてもそうです。人に隠れてかもしれませんが、カメに水をドバドバと入れることは気が引ける非常識な事だったかもしれません。でも、それをやりました。すると、神のわざが起こったのです。

水がワインに変わったという事よりも、「この方の言うとおりにしなさい」というい信仰、そして迷いがあったかもしれないけれどその通りにした行動、それが事態を変えたのです。そこに最初の奇跡の意味があるでしょう。

その続きの学びはこうです。その味を見て宴会の世話係は驚きました。「普通最初良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころ劣ったものを出すのに、こんな良いぶどう酒を取っておかれたのか」と。しかしここでも、私たちはこの事実に驚いてはいけません。その次にこうあるからです。「イエスは最初のしるしをカナで行って、その栄光を現した。それで、弟子たちはイエスを信じた」と。これは、ヨハネの福音書の1章の最後から続いて読むと一段とその意味を味わうことができます。

イエスの誕生と洗礼が書かれ、そのあと、最初の弟子たちが選ばれイエス様に従いました。シモンは「メシアに会った」という兄弟の証言を聞いて付いて気ました。そして翌日ついてきたナタナエルは、どうして自分のことを知っているように言われるのか不思議に思ったのですが、イエス様に「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて驚き信じたのです。「何でもお見通しの方」と思ったのでしょう。しかしその三日後の今日の出来事では、「イエス様の言葉を何でもその通りにしたら、奇跡が起こった」という出来事を目の当たりにして、イエス様をより深い意味で弟子たちは信じたのです。弟子たちの出会いとついてきた理由、そして信仰が育てられてきていることを一緒に見ることができます。

4. 勧め 

 私たちはどうでしょうか?イエス様の言葉を毎週礼拝で学び聴きながら、成長しているでしょうか?お門違いのお願いをして退けられてしまっても、この方の言うことは何でもしようと、信じ続けているか。そして、その通りにやってみたら、状況が変わったということを、教会生活の中で体験してきたでしょうか?そんな体験を大切にしましょう。

聖書の知識が増して信仰が深まり成長しているのではなく、こういう体験を通しながら私たちは神様に作り替えられていきます。一緒に歩みましょう。神様の祝福がありますように。

2022年1月8日土曜日

週報・説教メッセージ 20220109

  1月9日は徳弘牧師は大垣教会で礼拝説教を担当し、岐阜教会では信徒の方がメッセージをしてくれる礼拝があります。礼拝中継はYoutubeとFaceBoolの両方です。どうぞ、おいでください。






聖書の言葉 

イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)

43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。

ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「恐れるな、共にいる」 徳弘師

1. たとえ火の中 水の中…

 今日の旧約聖書の言葉を呼んで暫く過ごし、今日の準備をしていましたが、思い出した言葉は「たとえ火の中水の中」という言葉です。

 「どんなに難しいことや試練があっても、私は頑張ります!」というようなことを言う時によく使われる日本語ですね。確かに、火の中や水の中では私たちは生きていけませんから、その決意と覚悟をよく表した言葉でしょう。

 しかしそのいわれを調べてみて、びっくりました。 これは、歴史が古く、平家物語(鎌倉時代に成立したとされる軍記物語)に出てくる言い回しだそうです。そして実はもっと古くに、万葉集(奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集)のい歌にもあるそうです。そして、その両方とも、ラブレターのような文章の言葉でもあるとのことで、驚きました。

平家物語では、平維盛(たいらのこれもり)という武将が都の妻に対する説得の手紙に書かれているそうで、「火の中水の底への一緒に沈み、死ぬまで一緒にと思っていたけれど、この戦は大変厳しくて…」というような下りです。

万葉集では、安倍郎女(あべのいらつめ)という女性が男性への思いを詠んだで、「我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに(巻4・506)」とあり、意味は「あなた そんなに独りで心配しないで何かあったなら火にも水にも飛び込む私というものが一緒にいるじゃありませんか・・・」という具合です。心強い言葉ですね。

 これからは、この言葉を口にするときに、そんなに古くからいわれていた言葉なのかと、これらの歌を思い出し、感慨深く語るのも良いかもしれません。しかし、私たちにとってもっと大切な、思い出すべきことは、今日の旧約聖書、そして、新約聖書の出来事です。雑学はこのくらいにして、聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた時の話です。クリスマスにその誕生をお祝いし、その後幾つかの出来事を一緒に読んできました。1月6日のエピファニー・顕現節に、東方の博士が星を頼りに訪ねてきてイエス様に贈り物をしたという話で、クリスマスシーズンは終わります。今でもスペインではクリスマスではなくて、この日に子どもたちがプレゼントをもらう習慣の方が強いそうです。

さて、それも終わり、イエス様が12歳の時のエピソードも学びましたが、いよいよイエス様がみんなの前に出て、メシア・キリストとしての活動を始められる分岐点、それが今日の出来事です。

メシア(救世主)を待ち望んでいた民衆は、ヨハネに期待しました。祭司の息子で生まれるときに父ザカリアが不信仰で口がきけなくなったけれど、その子が生まれたときに口が利けるようになったという出来事は有名だったでしょう。そして、その子は大きくなり荒野で人々に「悔い改めの洗礼を」授けていたからです。しかし、その洗礼は「悔い改めてメシアを迎える準備をしなさい」という意味のもので、彼はメシアではないといいます。人々は困惑しました。そんな洗礼を受ける人々の行列にいたのがイエス様でした。

そして、そのイエス様が洗礼を受けて祈っておられると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」という出来事があったというのです。

今日も、イエス様の発言はありません。今日は、どんなメッセージを聞いて行けばよいでしょうか?でも大丈夫です。「天から聞こえた声」があったとありますから、これを考えていきましょう。

これは天から聞こえた神の声でしょう。そして、それは、人類に対する約束が繰り返され、実現したことを表しています。

神様の約束とは何でしょうか?それは今日読まれたイザヤ書にも語られています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」どんなことがあっても、神様は人々を救う。というものです。

神から離れ、互いに諍いをし、憎み殺し合いさえしてしまうようになった人類です。アダムとエバの子カインとアベルからすでに、兄弟で殺人事件が起こっているのが聖書の伝えることです。「聖なる書」ですが、最初の数ページから人間の罪深さが伝えられています。そして、私たちも皆、その子孫であり、「生まれながら罪深く」と今日も、罪の告白をした通りの状態です。

3.振り返り

私たちの生き方を振り返りましょう。罪深い私たちはどうしたらよいのでしょうか?

神様は、滅ぼし去るのではなく、立ち返り救われるための呼びかけをしてきました。そしてついに、神の子が人となってこの世にあらわれ、自ら教え生きることを始められました。それがイエス様の誕生とその公生涯なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえた神の声は、人間が堕落する前に、アダムを創られた後「はなはだ良かった」と言われた言葉を思い出します。

そして、イザヤ書の約束が果たされ、新しいことが始まってきたことを思い出しましょう。イザヤ書の先程の続きはこうです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない」でした。この声を聴いて、「たとえ火の中水の中」をもう一度思い出しますね。

これは、このように人間が愛する人に語り掛けた言葉よりももっと昔に、天地創造をされた神様が、私たち人間に語り掛けてくれた言葉であったのです。

いよいよ、神の子の誕生と活動開始です。

「洗礼」のことも思い出しましょう。水で洗い清めるのは、多くの宗教でも行われることです。神社でも手と口を順にすすぎ清める習わしがあり、伊勢神宮に参る前に神官たちは五十鈴川に白い衣を着て入りみそぎをする儀式があるそうです。洗礼者ヨハネが施していた洗礼は、それに似たものがあるかもしれません。罪の悔い改めのためですから。しかし、私たちがイエス様によってはじめられた教会の洗礼は違います。一度死に、新しく生まれ変わる事であり、水と霊によって生まれ変わることだからです。

 一度死に生まれ変わるのですが、ここでも今日のイザヤ書をかみしめましょう。神様は、「たとえ水の中でも火の中でも私たちを守ってくれる」と約束されている方だからです。一度今までの罪深い自分は死にますが、新しく、本当の価値ある自分として産み変えてくれる。それが、教会の洗礼です。

4. 勧め 

 どんなに聖書を読み暗記しても、神様の救いはまだ遠いのです。心を決めて、神様を信じて、水の中に飛び込む覚悟ですること、それが洗礼でもあります。

神様が人々のためにこの世に生まれ、現れてくださったのです。

洗礼を受けた方は、そのことをもう一度思い出しましょう。まだの方は、どうぞ、ご相談ください。お招きします。なんといっても、私たちの神様は、たとえ火の中水の中、そして、自らの命を犠牲にするまで、私たちを赦し、愛してくださっているのです。一緒に歩んでいきましょう。


2022年1月1日土曜日

週報・説教メッセージ20220102

 聖書の言葉 

マタイ 2: 1~12 (新2)

2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


説教「明るい星、希望か恐怖か」 徳弘師

1. 「トンネルを抜けると、入ると」…

 クリスマスやら年始の礼拝のワンプレートランチの食材の仕入れで、あちこち車で買い出しに回りました。数日前は、あゆみの家の礼拝や垂井の夕礼拝もあり、そんなことで、トンネルも何度か行き来しました。

 大野を通ってトンネルを抜けると、雪国とまではいきませんが、岐阜からいくと少しずつ景色も変わり、雪景色になりました。トンネルに入るといつも、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という小説の書き出しだけ思い出します。そういえば、夕方の山のきれいな景色を見ると「秋は夕暮れ」という枕草子の一部分だけを思い出し、「続きはどうだっけ?」と考えます。

そんなことを考えながらトンネルを出入りしたりして、トンネルの中の照明の色も観察し、味わいます。昔はオレンジ色のランプが多かったけれど、いまは少なくなりました。どうしてかと調べてみると、排気ガスが多かったころは白いランプだと真っ白になって見えにくいので、フォグランプと同じようにオレンジ色が良かったそうです。でも今は、LEDが主流になり、排気ガス規制も厳しくなって白い色が増えたとか。

そして、面白いと思ったのは、トンネルの入り口が明るくて、その後少しして明るさを落としているそうです。それは、トンネルの中が真っ暗に見えて危険だからということと、入った後急に暗くて見えなくなるのを防ぐために入り口ではできるだけ明るくしてあるとのこと。そして出口でもまた明るくしてあるそうです。それは、昼間にトンネルから出て急にまぶしく感じることがないようにと、そんな工夫もあると知りました。 

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、光として世に来られたイエス様のことがヨハネ福音書の1章から読んでいくところと、星の光に導びかれた顕現主日としてマタイの福音書の2章を読むところの二か所から選ぶことができるようになっています。それぞれの場所を読みながら、今日のトンネルの明かりのことを思いめぐらしながら年末年始を過ごしました。

イエス・キリストはメシアとしてこの世にお生まれになりました。それは、「暗闇を照らす光」であったのです。そしてまた、東の国から異国の異教の博士たちとも言われる人たちがそのしるしを見て探し当てることができたのも、「いっそう明るく輝く星の光」によって導かれたのでした。

しかし、今日の福音書は、その光を、あたたかく、足元を照らしてくれるありがたいものとしてだけではなく、逆のものとしても描き、私たちにその生き方を問いかけます。

ヨハネの1章では「命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と、受け入れない闇の人々のことを告げています。

そして、マタイの福音書では、その輝く星の光を「希望の到来」と見て喜んで歓迎した人たちと、「脅威」としてみたヘロデ王のコントラストが伝えられています。

3.振り返り

私は、どちらの立場でしょうか?皆さんは、どういう風に受け入れ、生きているでしょうか?

それを今日の聖書は、私たち一人一人に問いかけているのです。

トンネルの話を思い出しましょう。昼間にトンネルに入ってそこにランプがなければ、真っ黒の穴にしか見えないトンネルに突入するので、それは恐怖です。これを「ブラックホール現象」というそうです。それを避けるために、ランプを、しかもこの入り口では一段と明るい明かりをともしているのだということでした。目が慣れたころには、少し明かりを落とされています。しかし、出口近くではまた出る準備をしなければなりません。急に明るみに出ると今度は目がくらんで真っ白に見える「ホワイトホール現象」ということが起こり、事故の危険性が増すそうです。トンネルの出口が暗闇の中の真っ白な穴に向かっているように見えるから、そう呼ばれているそうです。

苦しみや寂しさで、暗闇の中にいるような時が人生にはあります。明かりを求め、あたたかさを求めます。しかし、闇に紛れて悪いことをして生きている時は、あまり明るいとそれは都合が悪いことになります。今日のヘロデ王は人々のために生きる王ではありませんでした。ローマ帝国の皇帝や遣わされた提督、またユダヤ教を否定するような権力とうまくやることで自分の権力や富も保っていたからです。そこに、ユダヤの王・約束されていたメシア・キリストが現れるのは都合が悪かったのです。星の光を頼りにキリストに会いに来た異邦人とは違って、「私も拝みに行くから」と言いながら実はそれを亡き者にしようと考えたのでした。

暗闇を嘆く人々には救いの光でも、闇に紛れる人にはすべての罪が暴かれる迷惑な光でもあるのです。

4. 勧め 

私たちも今までの生き方を変えて、神様と一緒に生きていきましょう。闇の中から急に明るみに出るのは怖いですか?目がくらんでしまうでしょうか?神様はトンネルの光のように、少しずつ明るくしてくれて、配慮をしてくださるでしょうか?そんなこともあるかもしれません。しかし、突然その時がやってくるかもしれません。思い切って光の中を歩みましょう。

実は、人生の中では、目がくらんでもその方がいいかもしれません。あのサウロも輝く光とともに突然現れたキリストに出会って、目がくらみ、暫く見えなくなっていました。人間の目は、そしてその脳の機能は、自分の関心のあるものを大きく見、好きなものを選んでみる習性があるそうです。

たとえば、満月のきれいな夜にスマホで写真を撮るとわかります。スマホの画面に街並みと満月をおさめようとするとなんと難しいことかと、気づかされます。意外と満月は小さいからです。人間は関心があるもの、見たいものに目をやり、頭の中でそれを拡大して、そこだけを見ているから満月は実物以上に大きく見えるそうです。しかし、カメラやスマホのフレームに入れると、全体が均一に入って来るので、「お目当ての物」は意外と小さかったことに気付かされるのです。

暗闇から明るい光の中に出て、それに打たれ、目がくらんで、一度すべて見えなくなり、本当の真っ暗闇に閉じ込められるとき私たちは変えられます。私たちは間違った先入観や、自分へのおごり高ぶり、無意識に選び取って見ていた事柄のなんと多かったことかに気が付かされます。

そんな私たちのもとに、キリストは生まれてくださったのです。この方は私たち異邦人も含めて、すべての人々のために生まれ、現れてくださったのです。